ディヴィッド カラカウア王の事

Aloha 

今、レギュラークラスで練習しているのはハワイ王国第7代目の王様、デイヴィッド カラカウアが主人公のMele Inoa(特定の人物について歌った曲)です。
立派なお髭のこちらの方がカラカウア王、通称カヴィカです。


ちなみにカヴィカ(Kawika)とは、英語の名前のDavidをハワイ表記にしたものです。
ストーリーテラーであるフラダンサーたる者、歌詞の意味を理解するだけでなく、その歌の主人公がどんな人だったのか、できるだけ鮮やかにイメージ出来る事が大事なんですね。

曲の練習を始める前に、カラカウア王がいったいどんな方だったのか、生徒さんそれぞれに調べてきてもらいました。

それぞれ熱心に取り組んで来たものをクラスで発表しあい、フラシスターの発表も聞いているうちに、以前は漠然としていたカラカウア王のイメージがよりクリアになってきたのではないかしら?

中でもとても詳しくまとめてくれたSちゃんのレポートを、ナーリコオカパライだけでは勿体無いので、以下にシェアさせていただきますね。

★Kawika 資料★
・カラカウア王 (ハワイ王国第七代国王)

・在位:1874年2月12日 ‐ 1891年1月20日 

・本名:デイヴィッド・ラアメア・カマナカプウ・マヒヌラニ・ナライアエフオカラニ・ルミアラニ・カラカウア (David La`amea Kamanakapu`u Mahinulani Nalaiaehuokalani Lumialani Kalakaua)

・生:1836年11月16日 

・死:1891年1月20日(満54歳没)

・配偶者:カピオラニ 

・父親:カイセラ・カルアイク・カパアケア 

・母親:アナレア・ケオホカロレ 
【王位】

カラカウアは,カメハメハ5世が跡継ぎを指名しないまま亡くなったあと,1872年の国王選挙に臨んだが,この時にはより知名度が高く革新的であったルナリロに敗れている。
しかしながらルナリロ王は1874年2月3日にやはり後任を指名せず逝去したため,カラカウアは翌日2月4日に国王に立候補,カメハメハ4世の未亡人であるエンマ女王を39対4で破り国王に選出された。
この選挙でエンマ女王の支持者が暴動を起こし死者を出している。カラカウアはアメリカとイギリスの海軍の力を借りてこの暴動を鎮圧した。
カラカウア王は弟のウィリアム・ピット・レレイオホクを跡継ぎに指名したため,選挙によって国王を選出する時代は終わりを告げた(ただしレレイオホクはリューマチ熱のため77年に死去。
その後,妹のリディア(リリウオカラニ)を指名した。

【外交①】

カラカウア王はハワイ経済のためアメリカ合衆国との交渉を積極的に行い,1874年11月には自らワシントンに出向きグラント大統領と会っている。
1875年3月には,ハワイの産品である砂糖や米の輸入自由化を認めさせるところまでこぎつけた。(互恵条約)
その影響で,ハワイでは,さとうきびプランテーションを中心にアメリカ系の財閥が急成長。
しかし1887年には条約更新の条件としてアメリカから真珠湾の軍事利用を押し切られ,カラカウアは売国奴という批判を浴びることになる。

【外交②】

「世界一周旅行をした王様」として有名である。

1881年にカラカウア王は,移民問題について学び,また外交関係を改善するためハワイを発ち,サンフランシスコを経て日本,中国,シャム,ビルマ,インド,エジプト,イタリア,ベルギー,ドイツ,オーストリア,フランス,スペイン,ポルトガル,イギリスを歴訪し,アメリカを経由してハワイに戻った。
初の外国元首の来日となった日本では,明治天皇と会見し移民の要請およびカイウラニ王女と山階宮定磨王(のちの東伏見宮依仁親王)の政略結婚を要請した(後者は明治政府に断られた)ほか,ローマ教皇のレオ13世やイギリス女王のヴィクトリア女王とも会っている。
カラカウア王の留守のあいだは妹のリリウオカラニが摂政として統治にあたった。

【外交③】

カラカウア王はポリネシア帝国を建設する構想を抱いていた。
1886年にはポリネシア連合形成のために3万ドルの予算を確保し,サモアのマリエトア王とポリネシア連合成立の合意に至っている。
しかしながら,翌1887年のクーデターでこの構想は消滅する。

【銃剣憲法】

1887年,サンフォード・ドールらアメリカ系移民を中心として,カラカウアの退位もしくは王政自体の廃止とアメリカ合衆国への併合を求める声が高まり,ハワイ連盟を結成して銃を取って集結した。
これを恐れたカラカウア王は交換条件として新しい憲法を受け入れざるを得なくなった。
これが銃剣憲法(ベイオネット憲法:ベイオネットとは銃剣のこと。銃剣で恫喝されてできた憲法)である。
この憲法は実質的に富裕なアメリカ系移民の参政権を大幅に認めるものであり,また閣僚の任命や解任も王の権限ではできずカラカウア王は実質的な権力の多くを失った。これに対してハワイ人軍人ロバート・ウィリアム・ウィルコックスによる抵抗もあったが失敗に終わった。

【逝去】

カラカウアはアルコール依存症によって体調を崩し,医者の薦めでサンフランシスコへ移る。

1891年1月20日に逝去。彼の死後は,ハワイ王国最後の女王となる妹のリリウオカラニが跡を継いだ。

【ハワイ伝統文化】

カラカウアの時代,ハワイ人の人口激減とともに,ハワイの伝統文化はすたれていく一方であった。
これを憂慮したカラカウアは,自らペンを取って「ハワイの伝説と神話」を著し,秘伝であった創世神話クムリポを公開した。

またカラカウアはその華やかな生活からメリー・モナーク(陽気な君主)とあだ名されていて,キリスト教宣教師によって禁止されていたフラを復活させたのは彼の功績である。
カラカウア王のハワイ文化復興の功績を讃えて1964年からハワイ島ヒロで毎年フラの大会「メリー・モナーク・フェステバル」が開催されている。
さらに王直属のフラ・ハラウを作り,洋楽ではロイヤル・ハワイアンバンドも編成,王みずからが作詞した「ハワイ・ポノイ」という曲はハワイの国歌となった。(現在でもハワイ州の州歌)
また,彼がホノルルに建設したイオラニ宮殿はアメリカ合衆国にある唯一の宮殿である。
イオラニとはロイヤル・ホーク:王家の鷹という意味で,ハワイの紋章にも使われている。
1883年に,ここで盛大な戴冠式が挙行され,また,1885年には王の生誕50歳を記念した大祝賀会が開かれた。
※『クムリポ(Kumulipo)』ハワイ王国の王家に代々伝えられてきた創世神話。
クムリポとは「起源」を意味するハワイ語で,18世紀の初頭にロノイカマカヒキ王子(カメハメハ大王の祖父の代に相当)の誕生を祝って編纂されたとされる。
日本における古事記にも相当する壮大な叙事詩で,宇宙の起源から歴代の王の業績に至るまでが16パート2102行にわたる散文で語り継がれている。
 文字を持たなかったハワイでは全て口承によって秘密裡に伝えられてきたが,ハワイ王国第7代カラカウア王が崩御前年の1889年に公表し,妹のリリウオカラニ女王が退位後の1897年に英訳することにより,世界的に有名となった。
※『ハワイ・ポノイ』1874年にデイヴィッド・カラカウア王 (David Kalākaua) が作詞,ロイヤル・ハワイアン・バンドの指揮者であったヘンリー・バーガー (Henri Berger) が作曲した。

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