私とフラ Asako Ishigaki
- 東京生まれ藤沢育ち
- 英国系航空会社のキャビンクルーとして9年間勤務
- 2001年:ハワイで出会ったフラに魅せられ日本のフラ教室に通いはじめる
- 2006年:マウイのクムフラ、故Kumu Ualani Makaʻike Calejaに師事
- 2007年:逗子市にてフラの指導をはじめる
- 2010年:Kū Mai Ka Hula マウイ本選 グループカヒコ・アウアナ出場 Maui Nui Award受賞
- 2012年:Kū Mai Ka Hula マウイ本選 グループカヒコ・アウアナ出場 Maui Nui Award受賞
- 2015年:藤沢市にフラ教室 Nā Liko O Ka Palai (現 Hālau Nālikookapalai) 設立
- 2018年:Kumu Keliʻi Kalaukoa Masao Grothmanの下で学びはじめる
- 2021年:Kumu Keliʻiのオフィシャルスチューデントとして認定される
当ホームページにお越しくださいまして、感謝いたします。
フラのお教室を探しておられる方は、おそらく「どんなお教室だろう?」、「どんな講師だろう?」とご不安に思われていらっしゃるかと存じます。
また、私としましてはこのページをご覧くださっている方に、当教室について深くご理解いただきたいと願っております。
そこで、ここでは私自身について自己紹介をかねて、私が現在、日本でフラ指導者として活動するうえで、転機となった3つの出来事をお伝えさせていただきたいと思います。
海外を身近に感じる家庭環境
ひとつ目が、高校生のときです。
私は、もともと海外を身近に感じる家庭環境に育ちました。
曽祖父は海外に長年在住していましたし、祖父もまた若いころカナダのバンクーバーに渡り、教育を受けた人でした。
日本に帰国後、カナダで身に付けた知識と技術をもとに事業を興した祖父は、山高帽を被りパイプをくゆらせる、どことなくハイカラな雰囲気を持った人でした。
また、親戚にも海外在住者が多く、毎年クリスマスになると海外から届くお菓子やプレゼントが、子ども心にとても楽しみでした。
夏休みには、アメリカから来日した従兄弟たちがわが家にひと夏滞在し兄弟姉妹のように過ごしました。
外国語科の高校に進学
そんな環境で育った私が、外国語科の高校に進学したのは自然な成り行きであったと思います。
そして、こちらの高校では「語学の習得には、単にスキルを学ぶだけでなく、その言葉を話す国の人々の生活や文化を知ることが重要である」という考えで教育が行われていました。
第二外国語として、フランス語やスペイン語の授業も必修でしたし、外国人の先生方からその国の人々の暮らしぶりや物の考え方についても学ぶことができました。
また、クラスメートにも帰国子女や海外からの留学生が多く、それまで一般的な中学に通っていた私には同年代ながら海外経験が豊かな友人たちとの出会いによって、一気に自分の世界が広がったように感じられました。
そしてこの間、私はアメリカのインディアナ州の小さな町に留学生として一年間滞在する経験にも恵まれました。
現地では、ホストシスターと一緒にハイスクールに通い、毎週日曜日には家族全員で教会に通い、サンクスギビングやクリスマスには伝統的なお祝いのテーブルを囲み、学校の長期休暇にはファミリーの親戚を訪ねて米国各地に旅行したりと、文字通り家族の一員として充実した一年間を過ごすことができました。
このように私は、幼いころから海外や外国の言葉のみならず、生活や歴史、文化までもを肌で理解する環境に恵まれていたのだと思います。
はじめてのハワイ
ふたつ目は、20代前半にはじめてハワイに行ったときです。
当時、私はイギリスの航空会社の客室乗務員をしていました。
そのため、海外を身近に感じられる環境だったのですが、それまでは特にハワイに興味があったわけでもありませんでした。
ですので「ハワイに旅行する日本人はとても多いけど、そんなにいい所なのかな? だったら、私も一度くらい行ってみようかしら…」くらいの軽い気持ちで出かけました。
しかしその気軽さは、マウイ島に到着した瞬間に吹き飛ばされます。
目に飛び込んでくる景色すべての美しさ。
すべてがとにかくクリアで色鮮やかに見えて、風景をみているだけで感動しました。

それまでに、趣味のスキューバダイビングで訪れた他の国のビーチリゾートでは感じたことがなかった、言葉にはできない不思議なハワイの魅力に引き込まれたんですね。
しかも、外国なのに自分の国にいるような安らぎや親しみを覚えましたし、それまで訪れたどこの土地にもなかったしっくりくる感じがありました。
このときからすでに、ハワイの美しさの背景にある歴史、文化の奥深さや精神性が、私にとって心地よく相性のよいものだったのだと思います。
私とフラとの出会い
私のフラとの出会いは、その後、何度目かのハワイ旅行でのことでした。
ホテルのラウンジで美しいフラダンサーが踊っていた、ゆったりと流れるような動きの踊りを見て「フラってなんて優雅な踊りなんだろう!」と感激したのを今でもよく覚えています。
ハワイアンソングのメロディに合わせて踊るダンサーの腰の動きは、風にそよぐ椰子の木のよう、柔らかい手の動きは海辺のさざ波のよう、夢見るような表情は美しく咲く花のようでした。
それまで、ココナッツブラと腰みのをつけて、打楽器の早いビートに腰を振る賑やかなタヒチアンダンスをハワイのフラだと思い込んでいた私にとって、はじめてこの目で見たフラの優雅さは衝撃的でした。
その数日後、フラカヒコ(古典フラ)を見る機会に恵まれました
年配のクム(ハワイ語でフラの先生)が唱えるチャントに合わせて、シンプルな衣装をつけた若いハワイアンの女性が踊るフラは、ホテルのラウンジで見たフラとはまったく違った雰囲気でした。
ダンサーの表情は笑顔ではなく、神妙な面持ちです。
膝を深く曲げ、腰を低くした体勢で大地をしっかりと踏みしめるようなステップ、古武道にも通じるようなハンドモーション。
ハワイ語のチャントの内容は理解できなくても、神聖でスピリチュアルな踊りだということはよく伝わってきます。
「ロマンチックで優雅なだけじゃなくて、こんなに厳粛な踊りもフラなのね!」
私は、フラの奥深さにすっかり魅せられてしまいました。
フラ教室をはじめるきっかけ

さて、みっつ目のきっかけは、のちに私がフラ教室をはじめることにつながる、最初のクムに学びはじめたときです。
ハワイ旅行をきっかけにフラに出会った私は、帰国後すぐにフラ教室に通いだし、夢中になりました。
最初の頃は踊っていることがただただ楽しくて仕方がありませんでしたが、数年経ったころには、ハワイアンの先生から直接より深い学びを得たいという想いが強くなっていました。
しかし、ハワイのフラの世界には何の伝手もなく知り合いもいません。
また当時は、今ほどインターネットが発達していなかったので、自分で調べることも大変でした。
けれど、リサーチをつづけた結果、とあるクムフラ(フラの師匠)と繋がりを持つことができました。
そして、当時は気軽にオンラインでレッスンを受けられる時代ではなかったので「まずは一度、直接お話しをさせてください」とマウイまで飛んで行きました。
このときは、ただただ突き動かされる衝動に任せて無鉄砲に押しかけたようなのもでしたね(笑)。
ちなみに、ハワイでフラを学ぶことは、一人のクムから生涯かけて学びつづけるような神聖さがあります。
そのため、簡単にはハウマナにはなれない厳しい側面も持ち合わせています。
ですので、いきなり日本からやってきた私のことを、クムは日本人観光客のお遊びフラ体験者だと思っていたそうなんですね。
しかし、次第に私のフラに対する真剣な気持ちを理解してくださり、やがてクムのハウマナ(生徒)としてフラを学ぶことを許可してくださいました。
ハワイアンにとってのフラとは?
それ以降、私は、定期的にマウイを訪れ集中的にプライベートレッスンを受けたり、ハーラウ(教室)のレッスンに参加したり、現地でのイベントやコンペティションにハーラウメンバーの一員として参加させていただく機会に恵まれました。
それらの経験を重ねるにつれ、私はハワイアンにとってフラがどういうものであるかを肌で感じ、実感できるようになっていきました。
現在、私はフラにかぎらずあらゆる「学び」とは、表面的な技術だけではなく、その奥にある歴史や文化、哲学を身をもって体験し、理解することだと考えています。
そしてフラは、振りつけどおりに踊れるだけでは不十分で、ハワイアンの歴史、ハワイ語、ハワイの人たちの考え方、すべてひっくるめた文化を知ったうえで踊ることが求められるのだと理解しています。
言い換えるなら、フラはハワイの大地に根づいた人々によって、代々受け継がれてきた文化や歴史を土台にして成り立つ芸術と言えます。
そしてそれは、日本人にとっての能、歌舞伎、茶道のような伝統文化とも似ています。
ハワイと日本も根底でつながっている
実は、私はフラの学びを深めるにつれ「ハワイの人たちが大切に受け継いできたフラを、日本人である私が気軽に踊ってよいものか?」と考えたり、かえってフラと自分との間に隔たりが大きくなるように感じ、葛藤した時期もありました。
しかし、その葛藤を晴らしたくて、自分なりの答えを見つけたくて私はフラの学びをつづけました。
残念ながらクムは他界されましたが、その後も機会があれば他のハワイの指導者に指導していただいたり、世界的なフラカンファレンスに参加してまいりました。
そして現在は、マウイ島生まれハワイ島育ちのクム ケリイ カラウコア マサオ グロッスマンから、フラ・オリ・ハワイ語・歴史などハワイ文化を総合的に教わっています。
かつては、日本人の私とハワイアンの伝統文化であるフラとの間に、いくらがんばっても超えられない高い壁があるように感じ虚しさを覚えていましたが、クム ケリイに指導を仰ぐようになった今はこう考えています。
「ハワイの文化も日本の文化も根底にある本質的なところは共通している。私たちはハワイアンになることはできないし、なる必要もない。でも外国人である私たちがフラを学んでいくうえで不可欠なのは、ハワイアンの文化や精神性を理解しようとする姿勢である。
ハワイの表面的な知識だけを得て“ハワイおたく”になるのではなく、フラの学びを通して、思いやりを持って行動すること。正しい行いをすること。自然環境・地球を大切にすること。そのために私は、与えられた生命を大切に有意義に生きることを学びたい」
フラには、言葉にはできない重みがあり、踊りの中に込められた文化や歴史があります。
私は、フラと関わる心地よさの中で、気がつけば人生における大切な学びをさせていただいているのだと思っています。
まだまだ未熟な私ですが、神様が与えてくださったフラとの出会いに感謝を忘れず、これからもハーラウ ナーリコオカパライの生徒さんたちとともに学びつづけていきたいと思います。
ハーラウ ナーリコオカパライがめざすフラ
フラの楽しさは、綺麗な衣装を着てステージで踊る楽しさや、身体を動かして得られる爽快感だけではありません。
むしろそれらは、フラで得られる楽しさの表面的な一部分であって、本当の喜びはもっと内面的なところにあると考えています。
フラを通して感じられる自然との一体感、フラシスターたちと協力しながら成長していく過程で得られる充実感は、毎日の生活に喜びと輝きを与えてくれます。
「辛いことがあってもフラがあるから頑張れる。落ち込んでいてもフラシスターたちとレッスンで汗を流すと元気になれる。」
そんな声を、よく生徒さんから耳にします。
年齢も職業も環境も違う人たちがハーラウ ナーリコオカパライで出会い、フラファミリーとしての絆を育んでいく。
そこには、血の繋がった家族とはまた別の心地よさがあります。
私は当スタジオを通して、フラシスター同士が助け合い、時には困難を乗り越え、ともに歩む過程で得られる喜びや幸せを味わって欲しいと思っています。
オハナになりませんか?
当フラスタジオ「ハーラウ ナーリコオカパライ」は、ダンススクールの枠を超えて、フラという絆で繋がったオハナ(家族)であり、生涯にわたる仲間と出会える場でありたいと願っています。
あなたもぜひ私たちのオハナになりませんか?
スタジオでお待ちしています!
ハーラウ ナーリコオカパライ主宰
石垣 朝子
“Hula is the language of the heart, and therefore the heartbeat of the Hawaiian people.”
(フラは心の言葉である。すなわち、ハワイの人々の心臓の鼓動そのものなのだ。)
第7代ハワイ国王、デイヴィッド カラカウア
クム・ケリイ・グロッスマン プロフィール
クム・カフナ・ヒーラー
ケリイ・グロッスマン
Keli‘i Kalaukoa Masao Grothmann(クムケリイ)はマウイ島のラハイナで生まれ、ハワイ島のコハラで育ちました。母はハワイとフィリピンのハーフ、父はドイツと日本のハーフで父方の祖母は九州出身です。ハワイの文化と同様に日本の文化をこよなく愛しています。
王族一家であるカラウコア家はフラとカフナの家系で、家族代々カラーカウア王時代以前から続くハワイの叡智を継承しています。曾祖母の父はカラーカウア王時代の政治家であり、王と友人であり側近でした。曾祖母は幼い頃にカラーカウア王家の神聖なダンサーとして選抜されダンサーとして仕え、そのスタイルが曾祖母から祖父から母へ、母からクムケリイへと伝承されています。
王族とカフナの家系に継承される様々な知識は、現地ハワイでもじっくり学べる機会は多くありません。自らの直系家族がカラーカウア王と関わっていたことから、当時の王室の事情、政治的な背景などフラだけではなく、ハワイ国の歴史、文化すべてに対する深い知識は、まさに古代ハワイから現代ハワイに至る生き字引です。